実家に帰ってお父さんと話していると、
いつの間にかお母さんが隣にいたんだ。
そして、いつも僕が実家に戻ったときそうだったように、
三人で話をした。
でも、ふと疑問に思ったんだ。
もしかしたらお父さんには、お母さんの姿が見えてないんじゃないかって。
だって話の流れが、お父さんと僕かお母さんと僕の一方通行で、
二人は全然かみ合ってなかったから。
そのうちお父さんは普段どおり一人で買い物に出かけてしまった。
その後も、残されたお母さんと僕は話をつづけた。
それはとっても不思議なことだったんだけど、
ちっとも不思議に思えなかった。
何の疑いもなく自然に受け止められたんだ。
お母さんに僕はいろいろな話をした。
息子が幼稚園へ元気に通ってること、娘が学校のマラソン大会で優勝したこと、
妻に贈って喜ばれたプレゼントのこと、最近結婚した友人のこと、
徹夜で納品した仕事のこと、評判のよかった公演のこと・・・
お母さんは微笑んで、いちいち頷きながら聞いてくれた。
ひとしきり話が終わったところで、お母さんはつぶやいた。
「お母さん、もう行かなきゃ」
僕は大して深く考えもせず、それを引き止めた。
「どうして? まだいいじゃない。そうだ、珈琲淹れるよ」
僕は立ち上がってキッチンで珈琲を淹れ始めた。
お母さんが愛用してたコーヒーケトルで湯を沸かし、
お母さんが愛用してたミルで、
お母さんの好きだったエメラルドマウンテンの豆を挽いた。
お母さんの愛用してたドリッパーに湯を注ぐと、
綺麗な泡の膨らみができて芳醇な香りがそこら中に漂った。
コーヒーを淹れながら、僕は心配になった。
お母さんがもういなくなってしまったんじゃないかって。
慌てて振り返った僕の眼に、さっきと同じように微笑むお母さんの姿が映った。
僕はホッと胸を撫で下ろし、その優しい笑顔に向けて声をかけた。
「もうすぐできるよ。ちょっと待ってて」
次の瞬間、僕は東京のマンションの風呂の中にいた。
前夜一時間しか眠れずに早朝から公演のために出かけ、
打ち上げ会場の美味しいイタリアンの店で
シメに飲んだグラッパの酔いがいい感じで回って、
千鳥足でマンションに帰り着いたものの、
風呂につかりながら眠ってしまっていたのだった。
はじめは何がなんだか分からなかった。
そして全てが夢だったと気づいたとき、
僕は一人子供のように泣いた。
お母さんの命が消えてしまったときも、
お葬式の間も、火葬場でお母さんを見送ったときも、
とてもとても悲しくて涙が出たけど、
その何倍も何十倍も涙が溢れ出て止まらなかった。
もうお母さんに会って話をすることは
絶対に叶わないんだという紛れもない事実が、
僕の心をキリキリと締め付けた。
亡くなってからそれまで夢に出てくることがなかったお母さんが
突然夢に現れたのは、深酒が見せた幻だったのかもしれない。
でも僕は信じたい。お母さんが僕に会いに来てくれたんだって。
お母さん、会いに来てくれてありがとう。
短い時間だったけど幸せなひとときをありがとう。
そして、これからも僕たちを温かく見守っていてください。